近頃、ゲーム界隈で「ポリコレ」や「DEI」という言葉を聞かない日はありませんよね。新作ゲームが発表されるたびに「またポリコレか…」とため息をつくユーザーもいれば、「多様性は大事だ」と言うメディアもいて、ネット上はいつもお祭り状態です。
今回は、この「ポリコレ・DEI」が一体何なのか、そして「なぜ多くのユーザーに嫌われているのか」を、ゲーマー目線で噛み砕いて解説します。

確かによく聞くよね。でも詳しくは知らないかも。

そうだね。なので今回は、全く知らない人にもなるべく分かりやすいように書いたからぜひ最後まで見ていってね。
そもそも「ポリコレ」「DEI」って何?
言葉だけ聞くと「良いこと」にしか思えないこれらの概念が、なぜゲーム業界ではこれほどまでに荒れる原因になるのか。その裏側にある構造を見ていきましょう。
ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)
「表現のブレーキ」としての正しさ もともとは「言葉のバリアフリー」のようなものです。例えば、特定の国の人を悪役としてステレオタイプに描かない、女性をただの「守られるだけの添え物」にしないといった、「誰かを傷つけないための配慮」から始まりました。
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「無意味な差別表現をなくそう」という点には、ほとんどの人が賛成です。しかし、これが過剰になると「表現の自由」への圧力と感じられるようになります。「このキャラは露出が多すぎるから修正」「この台詞は誰かを不快にするかもしれないからカット」といった引き算のクリエイティブが目立つようになり、結果として「ゲームがどれも似たような、毒にも薬にもならないものになっている」という不満に繋がっています。
DEI(ダイバーシティ・エクイティ・インクルージョン)
「組織のルール」としての多様性 こちらは「ゲームの中身」だけでなく「作る側の組織」の話です。3つの頭文字には、より具体的な経営戦略が込められています。
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ダイバーシティ(多様性): 白人男性ばかりのチームではなく、色んな人種の男女、多様な性的指向の人を雇うこと。
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エクイティ(公平性): 単なる「平等(みんなに同じ椅子を配る)」ではなく、背の低い人には高い踏み台を貸すように、「結果が同じになるように下駄を履かせる」という考え方です。これが「能力より属性を優先した採用(クォータ制)」ではないかという議論を呼んでいます。
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インクルージョン(包括性): 雇った多様な人たちの意見を、実際のゲーム制作に反映させること。
なぜ「良い目的」が「嫌われ者」になったのか?
もともとは「より多くの人が楽しめるように」という善意から始まったはずですが、以下の3つの理由でユーザーから忌避されるようになりました。
1. 「楽しさ」よりも「ノルマ」が透けて見える
ゲーム開発に巨額の資金が必要になった現代、パブリッシャーは投資家(BlackRockなどの巨大運用会社)からの評価を気にせざるを得ません。投資を受ける条件として「DEIの遵守」が求められるため、クリエイターが「作りたいから作る」のではなく、「投資のためにチェックリストを埋める」という作業が先行してしまいました。 プレイヤーは敏感です。「このキャラ、物語に必要ないのに『多様性枠』で無理やり入れられたな」と感じた瞬間、没入感は死に、ゲームは「教育ビデオ」に成り下がります。
2. 「外部の目」による検閲
Sweet Baby Inc.のような外部コンサルタントが、開発チームに対して「この描写は不適切だ」「もっとこう書き換えろ」とアドバイス(という名の介入)を行う構造が明るみに出ました。 「自分たちの好きなクリエイターが、ゲームを知らない『プロの活動家』に操られている」という構図が、ファンにとって最大の拒絶反応を引き起こしました。
3. 「対話」ではなく「排除」の姿勢
「ポリコレがおかしい」と批判するファンに対し、一部の活動家やメディアが「差別主義者だ」「時代遅れだ」とレッテルを貼って攻撃したことで、溝は決定的になりました。ユーザーのニーズに応えるはずのメーカーが、ユーザーを「再教育すべき対象」として見始めたことが、今の深刻な分断を招いています。

差別をなくしたり、仲間外れを作らないようにしようってことか。考え方としては正しいよね。

うん、私もそう思うよ。でも、「有色人種じゃなきゃ開発チームに採用すらしない」とか「性的マイノリティの人が主役級の物語じゃないと作っちゃダメ」みたいなおかしなことになってるのが現状なんだ。
ユーザーが「ポリコレ・DEI」を嫌う5つの理由
「差別はいけない」なんてことは、ほとんどの人が分かっています。それでも嫌われるのには、構造的な問題があるのです。単なる好き嫌いの話ではなく、ゲームという文化がどう変質してしまっているのか、その核心に迫ります。
1. 「遊び」が「説教」に変わる不快感
エンタメから教育・啓蒙への変質 ゲームは現実のストレスを忘れ、英雄や魔法使いになれる「最高の逃避先」です。しかし、近年の作品では、現代社会のデリケートな政治問題や、特定のジェンダー観に関する「正解」を突きつけられる場面が増えました。
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押し付けの構造: プレイヤーが自分の意志で選択するのではなく、ゲーム側から「こう考えるのが正しい現代人だ」と教育されているような感覚。これが、純粋に遊びたいだけのユーザーに「説教されている」という拒絶反応を引き起こします。
2. キャラクターの「アグリフィケーション(醜形化)」論争
「現実的」という言葉の裏にある美意識の否定 最近の欧米ゲーム(洋ゲー)では、女性キャラクターの顔立ちや体型を、あえて「一般的、あるいは地味」に描く傾向が強まっています。これを批判する側は「アグリフィケーション(醜形化)」と呼んでいます。
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ユーザーの不満: 「男性の視線を意識した美しさを排除する」というDEI的な方針が、キャラクターの魅力を削っているという指摘です。「ファンタジーなんだから、現実の鏡合わせである必要はない」「美男美女を操作してワクワクしたい」という消費者の欲求が、「非現実的だ」「差別だ」という言葉で切り捨てられている状況に、多くのユーザーがストレスを感じています。
3. 「多様性チェックリスト」による没入感の破壊
物語の整合性より「配分」が優先される キャラクターの配置が、ストーリー上の必然性ではなく、人種や属性の「ノルマ達成(チェックボックスを埋める作業)」のために行われているように見える現象です。
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不自然な配置: 例えば、特定の歴史背景や閉鎖的な村の設定なのに、不自然なほど多種多様な属性の人が混在しているなど、世界観のリアリティが損なわれるケースです。これは「物語を面白くするための多様性」ではなく、「批判を避けるための多様性」として映り、結果的に物語への没入感を壊してしまいます。
4. 既存IPの改変
「現代的アップデート」という名のファン心理への裏切り 長年愛されてきたシリーズの続編やリメイクで、キャラクターの設定(性別、人種、性的指向など)が突然変更されることがあります。
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信頼の崩壊: ファンにとって、キャラクターは単なる記号ではなく、共に成長してきた「戦友」のような存在です。それを現代の価値観(DEIアジェンダ)に合わせて作り変える行為は、制作者による「過去の否定」であり、ファンに対する最大の裏切りと受け取られます。「DEIを推したいなら新しい作品を作ればいいのに、なぜ思い出を壊そうとするのか」という怒りが、激しい反発の根源です。
5. 「面白さ」より「正しさ」を優先する制作体制
ナラティブ・コンサルタントの介入と品質低下 Sweet Baby Inc.をはじめとする外部のコンサル会社が、物語(ナラティブ)の監修を行う体制が多く見られるようになりました。
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クリエイティビティの退化: 開発者が「面白い」と思う表現よりも、コンサルが示す「不快感を与えないガイドライン」が優先されることで、作品から大事な個性が失われています。
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リソースの誤用: 本来なら「ゲームを面白くする(デバッグ、調整、新システム)」ために使うべき予算や時間が、ポリコレ的な監修や研修に割かれ、結果として「バグだらけ」「ゲーム内容がスカスカ」なのに「偏った政治的にだけは正しい」という大爆死タイトルが生まれる構造になっています。

確かに無理やりねじ込まれているのが分かると萎えるよね。好きだったキャラがリメイクで人種変わってたとかもう別人じゃん…

既存のIPを使うとマーケティングが楽だからね。新しい作品でやろうとすると見向きもされないこともある。内容が悪くても話題にはなっちゃう。
スコアの断絶:メディアとユーザーの温度差
「評価の乖離」と「政治的摩擦」こそ、現代のゲーム業界が抱える最も深い闇と言えるかもしれません。なぜ専門家と一般ユーザーの意見がこれほどまでに食い違うのか、そして「空前の反発」の本質は何だったのかを詳しく解説します。
なぜ「評価のズレ」が起きるのか?
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メディア(批評家)の視点: 多くのメディアは、ゲームが「社会に対してどのような進歩的なメッセージを発信しているか」を評価基準に入れています。DEIやポリコレを積極的に取り入れた作品は、たとえゲーム性に難があっても「社会的に価値がある」として高得点になりやすい傾向があります。
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一般ユーザーの視点: ユーザーが求めているのは「純粋な面白さ」や「過去作へのリスペクト」です。どんなにメッセージが立派でも、キャラが魅力的でなかったり、ストーリーがファンの期待を裏切るものであれば、容赦なく低評価を下します。
日本での大炎上:『アサシン クリード シャドウズ』の事例
この問題が「単なる海外の騒動」ではなく、私たち日本のゲーマーにとって「自分事」になった決定的な事件が、Ubisoftの『アサシン クリード シャドウズ』でした。これは単なる差別の問題ではなく、「他国の文化に対するリスペクトの欠如」が問題視された事例でもあります。
反発の本質は「文化の私物化」
この作品が日本でこれほどまでに嫌われたのは、人種差別の問題ではなく、「日本の歴史と文化に対するリスペクトが絶望的に欠けていたから」です。
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歴史の書き換えへの懸念: 「弥助」という黒人男性は、安土桃山時代に織田信長の家臣として確かに実在していました。ですがそれを『伝説的な侍』として描き、Ubisoft側が「忠実な歴史」として世界に発信したことが問題視されました。
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ずさんな考証: 正方形の畳、季節外れの植物、中国の仏像の混入、他団体の著作物の無断流用など、「日本文化を記号としてしか見ていない」ような描写が続出しました。それらに対する指摘へのUbisoftのずさんな対応もさらなる炎上を呼んでいます。
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DEIアジェンダの強制: 「日本の戦国時代に黒人侍が戦う」という、欧米のDEIの思想を達成するために、日本の歴史を都合よく改変・利用したことが、「文化盗用」であるとして激しい反発を招きました。
「ポリコレ=文化破壊」という認識の定着
この一件により、日本のゲーマーの間では「ポリコレやDEIを推進する海外勢力は、自分たちの文化を正しく理解しようとせず、自分たちの思想で塗り替えようとする侵略者である」という極めて強い警戒感が定着しました。

この件に関しては本当に酷かったよ。Ubiの言ってることは二転三転するし、一部の活動家はゲーマーに対して「レイシスト(差別主義者)だ!」とかめっちゃ罵詈雑言吐きまくってたし…

なんで普通に日本人にして「忍者」っていうアサクリにピッタリの最高のカードを切らなかったのか、これが分からない。
求められているのは「オーガニックな多様性」
ポリコレやDEIを巡る議論のなかで、よく「ゲーマーは差別主義者だ」という極端なレッテル貼りがされることがあります。しかし、それは大きな間違いです。ゲーマーがNOを突きつけているのは「多様性」そのものではなく、「面白さを二の次にした不自然な押し付け」なのです。
1. 成功した例:『Baldur’s Gate 3』
2023年に世界中で絶賛された『Baldur’s Gate 3』は、実はポリコレの基準で見れば「超」がつくほど多様性に満ちたゲームです。同性愛、多様な人種(種族)、複雑なジェンダー観…。しかし、このゲームを「ポリコレ臭い」と叩くゲーマーはほとんどいませんでした。
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なぜ受け入れられたのか?:それは、多様性が「ルール」ではなく「自由」として提供されていたからです。誰を愛するか、どんな容姿にするか、どんな生き方をするか。すべてはプレイヤーの主体性に委ねられており、開発者が「こう考えろ」と強制してこなかった。そして何より、ゲームとしての完成度が高かったからです。
2. ゲーマーの本音:「偏ったゲーム」より「面白いゲーム」を
結局のところ、ゲーマーが決して安くないお金を払って求めているのは、道徳の教科書ではなく、心を揺さぶる最高のエンターテインメントです。これに尽きます。
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クリエイターの自由を取り戻す: 投資家や活動家の顔色を伺った「チェックリスト」を埋める作業からは、魂に響く作品は生まれません。クリエイターが「これこそがカッコいい」「これが最高に面白い」と信じる、トゲのある自由な発想に立ち返るべきです。
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分断を終わらせる唯一の道: 「偏った思想」で殴り合うのをやめ、圧倒的な「楽しさ」で実績を積む。それが、今のギスギスした業界の空気を変える唯一の、そして最強の処方箋です。
多様性が「義務」ではなく、物語を豊かにするための「スパイス」として機能する未来。自由で多彩な作品がたくさんの人々を楽しませることこそが、「本当の多様性」なのではないでしょうか。

多様性を押し付けようとして多様性から遠ざかっていく…。本当に困ってる人たちからしたら迷惑でしかないね。

別にそういうゲームがあってもいいんだよ。思想に合わないからって強制的に全部作り替えようとさえしなければ、どんな作品でも多様性の一部になるんじゃないかな。

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